No ROASSO No LIFE

「県民に元気を」「子ども達に夢を」「熊本に活力を」今回の熊本地震により被災された皆様にお見舞い申し上げます。 このブログはロアッソ熊本のサポーターである私が感じたロアッソ熊本こと、熊本の復興に向けて思うこと、そして私がうまれた益城町のこれからについて思うことを綴っていきたいと思います。

熊本地震から2ヶ月経って感じる僕自身の心の変化とか周りの変化のこと(2)

もう2ヶ月、まだ2ヶ月。いろんな思いが皆さんにあると思う。僕はその両方をこの期間に感じた。いや、感じない時もあった。「熊本地震から2ヶ月経って感じる僕自身の心の変化とか周りの変化のこと」今回は2回目。熊本に帰ってからのこと。

東京⇒福岡⇒熊本

東京からは本当は4/16に熊本入りするはずだった。だけど、本震で熊本空港が閉鎖。福岡から熊本へ入ることを決断。しかし九州道もJRもまだ福岡ー熊本間が不通。福岡空港から南関ICまで高速を使いそこから下道で目指した。

福岡空港まではロアッソサポーターが迎えに来てくれた。空港ではDMATや自衛隊、その他医療関係の方々等、たくさんの「災害支援」を見た。

植木まで下道で送ってもらった僕は、そこから渋滞覚悟でバスで熊本市内へ入ることにした。バスの中は僕と同様にたくさんのキャリーを積んだ人たちが多くいた。なんだろう、そのバスの雰囲気は今でも忘れられないが、重く、暗い感じだが、みんなが助けあいキャリーを積み直したり、下ろすのを手伝ったり。普段見られない光景がそこにはあった。

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この写真にプラスして他にも荷物があった。中身は子供用のオムツや日用品、下着類、あとは缶詰の食料など。とにかく、熊本入りする前日までにないもの、明日にでも欲しいものを家族から確認し、詰め込めるだけ詰め込んだ。

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3号線を植木方面から熊本城方面に向かうバスに乗っていると、いろんなところに災害拠点のキャンプ地があった。バスの中から見えたのは岡山県のベースキャンプ地だった。

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本当に日本各地からこうやってベースキャンプを張り、災害支援をしていただく。本震後4日目ではあるが、本当に全国から熊本に来ていただいた。感謝しかない。

市役所前でバスを降りた。そこには見るも無残な熊本城の姿があった。石垣は崩れ、天守閣の瓦は落ちていた。バス停で熊本城を見上げていた老夫婦が「こぎゃんなるとな」って言葉を失いハンカチで涙を拭っていた。僕自身も言葉を失った。なんというか上手く言えないけど、熊本城は熊本県人としてのプライドというか誇り。通町筋から見えていたあの姿は今はもうないが、これを見た時ほんとうにショックで自然と涙がこぼれ落ちた。

この日はそのままタクシーで避難先の親戚宅へ向かった。親戚宅では夕飯の準備を進めていた。「ドン!!!」という突き上げるような余震が続く中、少し大きめの揺れがきてもすぐに屋外に出れるように玄関の扉は開け、祖母の車いすを玄関に準備し、避難装備をきちんと整えられていた。

まず最初に感じたのは、家族の安堵の表情だった。僕自身も元気そうな姿が見れて本当に安心したし、足りないと言われている食料をまずは渡し、家族みんなの話しを聞いた。

この日夕方は八代で大きな地震があった。そして余震も全く収まる気配がなかった。夜は車中泊しようと決めていた。車3台に家族が分かれる。足の悪い祖母は少し大きなワンボックスをフラットにしてそこに布団を敷いた。僕は運転席で寝た。まだまだ夜は冷え込んでいた。寒暖差の激しい熊本の春だった。

車内にいても夜中の余震には目が覚める。祖母をお手洗いに連れていくため、降ろして車いすでその時だけは家に戻り、何かあったらすぐに助け出せるように準備をし、本当に眠れない夜だった。1時間おきに目が冷めていた。

何から手をつければいいのかが全く判断できなかった

朝起きて益城に向かった。とにかくガラスや家財道具の釘とかがでてて本当に危ないと話を聞いていたので、作業着と安全靴は調達していた。明るくなってあらためて見た我が家に言葉を失った。

「14日んときはまだ大丈夫だったと。ここのベランダんとこも。でもね、本震で一発でやられてしまったばい」ベランダの窓はサッシごとぶち抜かれている状態だった。表現が見つからないのだが、1回めの地震で寄せられた家具たちが2回めの揺れで一気に窓のサッシごと外にふっとばされるといえばいいのだろうか。窓のない状態になっていた。

家の中に上がると、もう僕が生まれた家ではない状態だった。「あーあ。」そんな言葉しか出なかった。「どっから片付けるや?これ」「なんさん貴重品だけでも・・・」そんな会話をかわしながら片付けを進めていった。

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ここから10日間、毎日毎日家の外に1つずつ家具を運び出し、廃棄できるように分解し、トラックに積んで持っていく。母親には出来る限り危険でないところの作業をお願いしながら1つずつ進めた。

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どうやったらこうなるのかが想像がつかなかった。なにか洗濯機で回したような・・・うちの祖母はこの写真の中央にあるリビングテーブルの下にたまたま滑り落ちたという。

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仏壇も見えなくなり、天井は剥げ落ち、訳がわからない状態になっていた。よく耐えてくれたとおもう。母も祖母も。

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危険は承知で昔使っていた僕の部屋も壁は落ち、梁が外れかけ、今にも崩れるような状態になっていた。

とにかく、この状態から着れる洋服や、貴重品、使える食料なんかを毎日毎日運びだした。水は出ないし、まだ電気も来てなかったからできる作業は暗くなるまで。水は井戸水が使えるご近所さんが、「手洗い用に使っていいから!」とわざわざ言いに来てくださった。こういうところでも近所付き合いの大切さや地域のコミュニティの暖かさを感じた。

終わりの見えない片付けと次第に見えてくる周りの様子

本当に毎日毎日片付けをしてた。でもこれじゃ持たないなと思うこともあったので、思い切って1日休みにしようと家族に提案した。子ども達を公園につれてって遊んだり、母親にも1日何もせずに家にいろと伝えて休息の日を作った。

僕はと言うと、役所周りの手続きや今後どういう方法で家を解体しなければならないかなど、事務手続きがどうなっているかを確認に役場に向かった。

益城町役場の機能は保健福祉センターに置かれていた。保健福祉センターは手続きどころではなかった。たくさんの報道陣、自衛隊、警察、消防、避難してきている人でごったがえしてた。

「もう罹災証明の手続きしよっとですか?」そう確認すると、「まだそれどころじゃないので、もう少し待ってほしい」そう言われた。それもそうだろう。この現状をどうさばいていくかだけで手一杯に見えた。

うまいこと回していく人が必要だなぁ。そうも感じた。なんというかみんな大変な状況の中リーダーシップとって現場をうまく回す役割って重要だなと。1人いれば少しは状況改善するのにななんて思いながら役場を出ると、「ときやん!」声をかけられた。

サポーター仲間だった。

疲れ果てた顔の中にも笑顔を見せてくれた。大変だったろ?と声をかけて少しでも話を聞いて楽になってもらおうそう思って話をきいてた。すると、今度はサポーター仲間の自衛隊員がやってきた。「今風呂ば沸かしよるけん、入れるごつなったら入って行きなっせ」と。少しの時間だったが、3人で立ち話をし、まだいつようなるかわからんばってん、少しずつようなるごつがんばらにゃんねと話をして役場をあとにした。

サポーターもたくさん被災してる。本当にみんなが大変な状況の中で生きるために必死。改めてこの地震が憎いなとそう感じた。

サポーターに会ってようやく、ロアッソそういえば大丈夫なんだっけ?と考えられるようになった。答えはNOだった。当面活動を停止する。そういうニュースが報道されていた。

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片付けもままならない中で、ロアッソのことを考えている余裕がなかったが、少しずつ周りが見えるようになってきた。サポーター仲間からも「うちは大丈夫だけん、手伝えるけんなんでん言ってくれ」そういうありがたい言葉ももらった。

片付けと平行して、いろんな食料の調達、日用品の調達にも追われていた。また、清潔情報や手続きなど割とTwitterにも身近な情報が掲載されていた。NHK防災のアカウントもすごく助かったけど、個人的にはテレビタミンの災害アカウント(今はニュース速報アカウントになっている)がとても重宝した。

現実を目の当たりにして感じた先の見えない復興への一歩

熊本に帰るまではとにかく情報を集めて熊本に送って、そして少しでも家族のケアをしなきゃ!!と半ば興奮状態だったかもしれない。だけど、熊本に帰って自分の生まれた家を目の当たりにした時に感じたこと、目で見て感じたことは、なんといっていいか難しいが、虚無感というか、とてもむずかしい気持ちになった。とにかく、果てしない。1年2年でどうこうという話ではない。ずっとこいつと向き合っていかなければいけないそう感じた。

とにかく先が見えない。これがいつまで続くのか・・・・・。

実家を見上げながらそう感じることが多くあった。