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No ROASSO No LIFE

「県民に元気を」「子ども達に夢を」「熊本に活力を」今回の熊本地震により被災された皆様にお見舞い申し上げます。 このブログはロアッソ熊本のサポーターである私が感じたロアッソ熊本こと、熊本の復興に向けて思うこと、そして私がうまれた益城町のこれからについて思うことを綴っていきたいと思います。

熊本地震から2ヶ月経って感じる僕自身の心の変化とか周りの変化のこと(1)

熊本のこと益城のこと

もう2ヶ月、まだ2ヶ月。いろんな思いが皆さんにあると思う。

僕はその両方をこの期間に感じた。いや、感じない時もあった。

4/14 21:26は会社にいました。携帯に表示された「震度7 熊本県益城町」の地震速報。はじめは冗談だろうって思った。でも何度も表示される地震速報に、次第に手が震えました。

4/14 21:26 震度7益城町

テレビをつけるとやはり震度7だと。こっちに住む益城の友達のことが頭に浮かんだと同時に無理は承知で実家へ電話をいれた。実家はもう停電して断線していたのだろう。「おつなぎできません」のアナウンス。携帯も当然通じない。LINEで「大丈夫か?」とメッセージを送るも既読にはならなかった。

 

そして20分ほどすると、LINE電話がかかってきた。息荒くパニックになっている弟が「兄貴もう死ぬかんしれんけん。やびゃーよほんとに。なんさん実家いくけん」そう言って電話が切れた。

返す言葉もなかった。とにかく、母と祖母が安全なところにいるといいと。そう願うしかなった。電柱が倒れ、ブロックが倒れ、その中を実家まで子ども二人つれて走った。弟と、弟の嫁には感謝しかない。

 

 その日は朝まで眠れなかった。テレビのキャプチャ画像を圧縮してLINEで送り続けた。当然車中泊だから、テレビもラジオもない。東日本大震災のときにガソリンがなかなか調達できなかったという情報を思い出し、出来る限り大事に使うよう伝えていた。

 

 翌朝、弟から連絡が来た。「じーちゃんと親父の位牌は救出したばい。ばってんね・・・もう住めん」

 

 なぜ自分が離れた東京にいるのか、本当に責めた。何もしてあげることができない。自分はいったいここで何をしているんだと。それが今でも辛いしとても苦しい。

 

 東日本大震災のときのように、また大きな揺れがくるかもしれん。だけん、できれば家じゃなく、車に寝ろ。そういった日の夜中にまた震度7が来た。

4/16 1:25 震度7 西原村益城町

f:id:tokiyan87:20160615011133j:plain

信じられなかった。

もう寝ようとしていた矢先だった。けたたましくなるテレビの緊急地震速報

もうやめてくれとしかいえなかった。

この日も眠れなかった。ひたすら情報を集める。阿蘇大橋が落ちた、竜神橋が通行できない、阿蘇の多くで土砂崩れ発生。耳を塞ぎたくなるようなニュースが次々と読み上げられた。僕はそれを記録し、熊本の家族に送り続けることしかできなかった。

翌朝、前震で傷んだ実家はトドメをさされていた。

「なんさん、片付け始める前に写真撮れ。罹災証明の際にいるていわれよるけん」

実家の前は道路が塞がれて通れないという。

実家だけでない、熊本全体がパニックに陥っていた。これまで前震で被害の少なかった地域にまで影響が及んでいたからだ。

きっとこれから食料がたりない、救援物資が必要になる、そういう声が多くあがってくるんだろうと。

こっちでできることは限られてる。まずは家族を救うこと。そのために正しい情報を拾い上げて刻一刻と変わる「ほしいもの、いま必要なもの」をこっちで揃えることだった。熊本にいつ行くべきか。そのタイミングを伺っていた。今いかないと家族が救えないのではないか、そんな危機感さえ覚えた。

予想通り必要な物が日々変化していた。子どもの離乳食がない、オムツがない、食料がないから、着るものがない、服がない、等々。。。。

そして4つのキャリーをもって熊本へ向かった

 

震災発生から3日で感じていたこと

震災発生から数日で感じてたことはとにかくたくさんの情報があふれた。あふれすぎて、何が正しいかさえも判断・区別がつかない状態だった。熊本のみんなはもっと大変だったと思う。こっちにいてもなにが正しいのか判断がつかないくらいだったから。

指定避難所、炊き出しのばしょ、トイレの場所、病院の場所、すべてが必要だった。欲しい人のところにとどくよう、FacebookTwitterを通じて届け続けた。

まだこの時は興奮状態だったのかもしれない。自己嫌悪のような気持ちにはなっていなかったように思う。